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安土桃山時代

安土桃山時代

戦国時代の終わり、織田信長が現れて安土城を築きます。その後、豊臣秀吉の全国統一を経て、江戸幕府が開かれるまでを安土桃山時代といいます。

秀吉は、小田原北条氏を滅ぼして全国を統一しますが、その後宇都宮城に約10日間滞在し、関東・東北の大名配置を決めました。これを宇都宮仕置(しおき)といいます。源頼義や源頼朝が東北地方を平定するにあたって宇都宮をおとずれ、二荒山神社をお参りしたことにならって、宇都宮城を仕置の場として選んだのではないかと考えられています。徳川家康や伊達政宗をはじめ、東国の戦国大名が宇都宮城を訪れ、秀吉のさばきを受けました。

このころの宇都宮城主は第22代国綱です。秀吉から一門格を表す羽柴の姓を送られ、また、朝鮮出兵にも兵を率いて参戦しています。

しかし、名族とうたわれた宇都宮氏は、1597年、秀吉によってとつぜん領地が没収され、国綱は追放されてしまいます。おなじころ、宇都宮城以外の城も取り壊されたり使用が禁じられたりしました。国綱追放のときは、一人の家来もつきしたがうことを許されなかったため、東勝寺など宇都宮氏とかかわりの深い大寺の住職がおともをしました。その後、これらの寺は急速に荒れはて、廃寺になったと伝えられています。

追放の理由には、後継ぎ問題をめぐるもめごととか、検地の結果をごまかしたためだとかさまざまな説があります。いずれにしても、口実さえあれば古い勢力を取りはらい自分たちの家臣を配置して支配を固めようという、豊臣家のねらいによるものだと考えられます。

国綱追放の後、城代として宇都宮城をあずかったのは浅野長政です。長政は豊臣政権を支えた五奉行のうちの第一人者で、宇都宮がいかに重要視されたかがわかります。

翌年の1598年には、会津の蒲生秀行が宇都宮城主としてやってきました。会津には越後から上杉景勝が移っています。また、この年に秀吉が亡くなっています。

秀吉の死後の1600年、天下分け目の戦いといわれる関が原の戦いがおこりました。その直前、徳川家康は小山に、後の2代将軍秀忠は宇都宮城にいました。家康に従おうとしない、会津の上杉景勝を討つために出陣していたのです。しかし、石田三成が挙兵したという知らせを受け、2人は関が原を目指します。

このとき、蒲生秀行ら下野の諸大名には会津への防備が命じられました。下野は石田三成と通じる上杉勢力との最前線だったのです。秀行は町年寄を宇都宮城に呼び、3か条のお達しが言いつけられます。これによって、9人の人質が差し出され、笠間城へ送られました。幸いにも下野国には戦火はおよばず、人質も無事に帰されました。