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歴史を知りたい

昭和・平成時代

昭和時代 1

第一次世界大戦後の1920年、ふたたび戦争が起こらないよう各国が協力して平和を守るための国際連盟が結成されました。しかし、深刻な世界恐慌がおこり、各国の経済が行きづまると、再び戦争の影が忍びよって来ました。

日本では、財閥が資本力の弱い銀行や会社を合併し、各種の産業を独占していきました。また、大陸への勢力拡大をねらっていた軍人や資本家たちは、このころ進められていた軍縮に批判的になっていました。

宇都宮では、昭和になると国から都市計画法の指定を受け、本格的な都市づくりに取り組みました。そして、商業(消費)都市から工業(生産)都市への脱皮をめざし、道路・住宅・公園などの環境を整備する一方、工場を誘致しようとしたのです。

市の中央部にあった刑務所が移転して跡地が東武鉄道に払い下げとなり、1931年には宇都宮・栃木間に東武宇都宮線が開通しました。また、この年に陽西土地区画整理組合・陽南土地区画整理組合が、1940年には陽北土地区画整理組合が設立されて新しい住宅開発が進められました。大通りが舗装され街路樹が植えられたほか、現在の東京街道が開通しました。八幡山公園ができたのもこのころです。この時期は、宇都宮商工会議所やカトリック松が峰教会、宇都宮聖ヨハネ教会など、洋風建築物も次々につくられていきました。

こうした中、1931年に満州事変が起こり、日本は国際連盟を脱退して世界から孤立していきます。1936年の二・二六事件により軍部が政治上の発言力を強めると、翌年には日中戦争が始まり、国家総動員法のもとで戦時体制がつくられていきました。

当然のことながら、宇都宮も戦時色が濃くなっていきます。1937年には関東防空演習があり、これに参加した宇都宮の夜は、初めて灯火管制により黒一色になりました。1940年に、14師団が満州のチチハルに移駐されると、かわって 陸軍第51師団が編制されました。翌年には、大政翼賛会宇都宮支部が発足するなど、国力の全てが戦争に向けられていきました。

宇都宮聖ヨハネ教会 中国との戦争に行きづまった日本は、1940年に日独伊三国同盟を結び、東南アジアへの侵攻をねらいます。そして、1941年12月8日、太平洋戦争に突入したのです。

宇都宮では、1940年に米の配給がおこなわれ、砂糖・マッチ・味噌・醤油・衣類・燃料へと拡大されました。翌年には、銅や鉄などの金属回収が全国にさきがけて行われています。また、戦争により軍需生産に力が注がれると、生産都市への転換を図り、中島飛行機宇都宮製作所をはじめ、多くの軍需工場の誘致を進めます。

宇都宮には、軍事施設も次々に造られています。1940年、宇都宮陸軍飛行学校が発足し、翌年には清原村に航空廠を併設した 陸軍宇都宮飛行場が完成します。1945年に入り、米軍機による地方都市や工場などをねらった空襲が激化すると、高射砲部隊が宇都宮に派遣され、八幡山には師団の地下司令部建設が進められました。

昭和時代 2

1945年2月10日、群馬県の中島飛行機太田製作所が米軍のB-29爆撃機部隊の空襲を受けました。この空襲では、となりの足利市にも多量の爆弾が投下され、30人を超える死者が出ています。太田爆撃後のB-29編隊は、宇都宮上空を東に進んで太平洋へ抜けました。このとき、残っていた爆弾と焼夷弾が投下され、平石村の雷電神社付近に大きな穴があきました。多くの宇都宮市民が、B-29と空襲の恐ろしさをはじめて目の当たりにしたのです。

宇都宮にある施設を攻撃目標とした空襲は、2月16日の米軍艦載機によるものが最初でした。これは、陸軍宇都宮飛行場に対するものでしたが、翌17日には市街地に近い上空で疾風1機と米軍機3機の空中戦が行われ、多くの市民がこの様子を目撃しています。このような、艦載機などによる飛行場・軍需工場・交通機関への攻撃は、終戦まぎわまで何度も繰り返されました。

そして、7月12日23時19分、B-29による宇都宮空襲が開始されたのです。この空襲で投下されたのは、M47焼夷爆弾・E46収束焼夷弾です。E46は、投下後ある一定の高度で、中から38個のM69焼夷弾が分かれて落下する仕組みでした。深夜の空襲は2時間を越す長い時間にわたり、避難と消火活動は困難を極めました。

つぎの朝、市民が目にしたのは、焼け野原になった宇都宮です。現在のJR宇都宮駅から東武宇都宮駅の間はほぼ壊滅状態となり、死亡者数620名以上、負傷者数1128名以上を出すという大きな被害を受けました。この空襲は、古い町並みと貴重な文化財を焼失させ、市民生活に大きな打撃と混乱を与えたのはもちろん、長期にわたって心身に傷跡を残しました。

沖縄戦や都市空襲、広島・長崎への原爆投下を経て、日本はポツダム宣言を受諾し、8月15日に終戦を迎えます。日本は、アメリカ軍を中心とする占領統治下に置かれることになりました。

宇都宮には、10月に進駐軍がやってきました。戦後の、膨れ上がった失業者、猛烈なインフレ、危機的な食糧難の中、宇都宮にとって最大の課題は戦災復興でした。宇都宮市が優先して行ったのは、清掃・金属回収・水道施設の復旧・住宅対策の4事業でした。また、市内の国民学校10校中6校が焼失していたため、学校の復旧も急がれました。

終戦に至るまで、軍の施設と軍需工場があったことで、宇都宮市と周辺の村は共に成長してきたともいえます。戦後、宇都宮市は数回にわたって隣接地域を部分的に編入してきましたが、1953年に施行された町村合併促進法により、合併が一気に加速します。

1954年には、平石・清原・横川・瑞穂野・城山・豊郷・国本・富屋・篠井の9村を、翌1955年に雀宮町・姿川村を合併しました。 1966年に平出工業団地の造成が完了し、1972年に東北縦貫自動車道が開通しました。1976年には、内陸最大級とされる清原工業団地の造成がかんりょうするなど、「工業都市」としての基盤整備が進みました。この頃、耐火性や加工のしやすさに優れた大谷石の出荷量が70~90万トンとなり、宇都宮市内の蔵や塀に使われたほか、東京や横浜などの首都圏にも多く出荷された。首相官邸や東京オリンピックの会場となった国立競技場の土台にも大谷石が使われました。

1977年に飛山城跡が国指定史跡となり、発掘調査により見つかった縄文時代の大規模集落である根古谷台遺跡はその規模から全国的な注目を集め、1988年に国指定史跡となりました。

平成時代

新たな芸術分野としてのメディア新興により、放送・映像に係る専門学校が設置される等文化芸術色の「文教都市」としての充実が図られ、1996年には中核都市になりました。

1996年、市制100周年に当たり、平成記念子どもの森公園の開園や宇都宮美術館が開館し、新たな教育・文化・芸術の拠点も整備された。また、「百人一首ゆかりのまち」として全国最大規模の百人一首市民大会が毎年開催されてきました。その他にも、「ジャズのまち宇都宮」や「うつのみや妖精ミュージアム」を開催するなど、多彩な文化振興を事業を展開してきました。

2007年、上河内町・河内町と合併して、人口が50万人を超える北関東最大の都市となりました。2011年には、群馬-栃木-茨城の北関東三県を結ぶ北関東自動車道が開通しました。