×

二度の戦災をたくましく生き抜いたまちうつのみや二度の戦災をたくましく生き抜いたまちうつのみや

うつのみやが巻き込まれた二度の戦争ってなに? うつのみやが巻き込まれた二度の戦争ってなに?
当時の城下には約1万人が住み、代々譜代大名が封入する軍事・交通上の重要拠点でした。 当時の城下には約1万人が住み、代々譜代大名が封入する軍事・交通上の重要拠点でした。

宇都宮での戦い

慶応4(1868)年1月、新政府軍と旧幕府軍による戊辰戦争が勃発。江戸城の無血開城後も旧幕府方の一部が抵抗を続けます。4月19日、旧幕府軍は、宇都宮城の南東部から攻め込み、新政府側の宇都宮藩は防戦しますが、旧幕府軍に押され、二の丸館に火を放ち退城。旧幕府方の放った火と相まって、宇都宮城下のほとんどが焼失してしまいます。4日後の23日、宇都宮城を占拠した旧幕府軍は、新政府軍の総攻撃により、一斉に退却し日光に向かいました。

戊辰戦争宇都宮城攻防図

宇都宮城をめぐる攻防戦も行われ、宇都宮城は一時旧幕府軍に占拠された。この戦いで宇都宮城や二荒山神社をはじめ、城下の大半が焼失した。この図は戊辰戦争における宇都宮城をめぐる2度の戦いを描いている。(市指定・光明寺蔵)

県都宇都宮の誕生

この戦争で焼け野原となった宇都宮のまちは、その後の文明開化の波を受け近代的なまちに生まれ変わり、明治17(1884)年に栃木から宇都宮への県庁移転により、名実共に県の政治・経済の中心となります。

軍都 宇都宮

明治40(1907)年、宇都宮が陸軍第14師団の駐屯地として決定されたことにより、師団司令部等の軍関係の施設が置かれ、「軍都」として国防上重要な役割を担うまちとなりました。

宇都宮中央女子高赤レンガ倉庫 (旧第66歩兵連隊倉庫)

明治40(1907)年の宇都宮への第14師団設置に伴い、第66歩兵連隊の厨房関係施設として建設され、現在は多目的ホールとして用いられている。(国登録)

旧市街地の大半が焼け野原に

太平洋戦争が終わりに近づいた昭和20年7月12日、アメリカ軍のB-29爆撃機が宇都宮上空に襲来し、焼夷弾を投下。旧市街地の大半が焼け野原となり、多くの死傷者を出し甚大な被害をもたらしました。

宇都宮空襲により焼失した市街地(中島みどり氏撮影)

1945(昭和20)年7月12日23時19分、アメリカのB-29爆撃機による宇都宮空襲が開始。軍需工場や飛行場など特定の軍事目標ではなく、一般市民の住む市街地が狙われた。

八幡山の地下壕

第二次世界大戦末期の昭和20(1945)年、陸軍が空襲と本土決戦に備え、地下司令部として使用することを想定して建設。完成する前に終戦となり、実際には使用されなかった。(現在は公開されていません)

戦後復興のシンボル「大イチョウ」

宇都宮は戦後いち早く復興を成し遂げました。この時、空襲で焼け野原となったなか、三の丸の土塁上に立ち続けた「旭町の大イチョウ」は、終戦の翌年には新芽を芽吹かせ、市民に勇気と希望を与え心の支えとなりました。

大イチョウ

右側の写真は焼け跡に残った大イチョウ。ここから芽がでて現在の姿に。(市指定)

MAP