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歴史を知りたい

弥生時代

弥生時代の宇都宮

大陸文化の影響を受けて、九州北部に稲作と青銅器や鉄器を使う新しい文化が誕生したのは紀元前500年ころでした。この時代には、縄文土器よりもうすくて赤みをおび、形の整った弥生土器が使われるようになりました。

日本列島は、梅雨の季節とそれに続く高温多湿な夏があるため、稲作に適した自然条件でした。このため、100年もたたないうちに西日本一帯に広がり、ついで関東や東北地方へと広がっていきました。人々は、低地や湿地を水田に変え、もみをたくわえるため、住まいとしての竪穴住居とは別に高床の倉庫を建てました。

稲作は、水を引く技術や集団作業が必要だったので、これらを指図する人が現れ、ムラをおさめました。また、貧富の差が生まれ、土地や水をめぐる争いがおこり、柵(さく)や濠(ほり)で囲まれた環濠集落が生まれました。有力なムラは周りのムラを従えて勢力を広げ、小さな国となりました。中国の古い歴史書には、紀元前1世紀には100あまりの国があったことが記されています。

宇都宮に弥生文化が伝わったのは、紀元前100年頃です。しかし、市内にある弥生時代の遺跡はわずか30箇所にすぎません。その理由としては、東日本に適した稲の登場に時間がかかり、稲作が十分に発達しなかったことと、弥生時代が短い期間であったことがあげられます。

弥生時代中期の遺跡に山崎北遺跡があります。ここでは、3軒の竪穴住居跡と数基の土坑しか確認されていません。この時期の集落は、数件程度の小規模なものだったようです。

また、野沢遺跡では、弥生土器の特徴である壷や甕といった土器が発見されていますが、縄文土器とそっくりの文様がついています。これらの土器は、栃木県のこの時期の土器の標識となっており、野沢式土器と呼ばれています。土器の中にはモミつぶの跡が残っているものがあり、稲作が行われていたことをしめしています。さらに、人面付土器と勾玉・管玉が入った土器も発見されています。これらは、関東から東北地方南部にかけて見られる再葬墓という特殊なお墓として使用されたものと考えられています。死者をいったん土葬などにして白骨化させ、その骨を拾って土器の中におさめ、直径1mほどの穴に土器をいくつかまとめて埋葬するものです。

弥生時代後期の遺跡は、平野部に多く見られます。宇都宮市南部の田川・姿川とその支流に水田を開き、近くの台地上に多くの集落を作って住むようになりました。これは、本格的な稲作が行われていたことを示すものです。二軒屋遺跡で発見された土器は、栃木県から茨城県西部に分布している標識とされています。

3世紀になると、中国の古い歴史書に日本にあった邪馬台国に関する記録が残されています。邪馬台国については、その所在地など、まだまだ不明な点が残されていますが、小さな国がしだいに大きな国にまとまっていった様子がわかります。