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歴史を知りたい

明治・大正時代

明治時代 1

1867年に発足した明治維新政府は、戊辰戦争のかたわら着々と中央集権の体制をつくっていきました。1868年に年号が明治に改まると、1871年には廃藩置県がおこなわれ、3府72県が置かれました。このときに、宇都宮県が誕生しています。

これとともに、四民平等が唱えられ江戸時代の身分制度も改められました。しかし、皇族・華族といった特別な身分が設けられる一方、差別されてきた人々の人権回復や実際の生活を向上させるための政策は不十分なものでした。

1872年、戊辰戦争で焼け残った宇都宮城の櫓や門が、払い下げられたり壊されたりし、一方、県庁や病院、郵便局、東京鎮台の駐屯地などが次々と建設されました。戦災後の宇都宮に、近代のまちの姿があらわれはじめたのです。 また、この年には学制が発布されて藩校の修道館は廃止となり、翌年には6校の小学校が設立されました。また、これらが統合され、1878年に西校、翌年には東校が開校しました。

明治政府は、殖産興業を進め資本主義の育成に努めました。官営のものでは1872年設立の富岡製糸場がありますが、その前年、川村伝左衛門が現在の石井町に大嶹商舎を設立しています。これは私設の工場でしたが、米国前大統領グラント将軍など内外の指導者が訪問するなど、明治初期の模範工場として認められました。

1873年2月、二荒山神社が国幣中社から県社に降格となりました。二荒山神社が延喜式神名帳に記された下野一ノ宮であるという確証がないというのが理由でしたが、実際には日光二荒山神社との社格争いが原因でした。宇都宮藩の重臣として幕末に活躍した県六石らは、これを宇都宮の歴史的名誉を傷つけるものとして社格回復運動を展開し、1883年に国幣中社の栄誉を回復することに成功しました。翌年の3月の臨時大祭は「ひっくり返るような大祭礼」といわれるほど盛大なものでした。

このころの宇都宮県は、現在の栃木県の北半分を県域にしていました。しかし、1873年6月15日に宇都宮県は廃止され、栃木県に組み入れられることになりました。県庁は栃木町にあったため、その後、1884年に宇都宮町に県庁が移転するまで、宇都宮は県政の中心から外れることになったのです。

県庁の移転運動は1882年からはじまりました。論点としては、宇都宮が県の中央に位置していること、道路網が宇都宮を中心に四方八方に伸びていること、県北東部の開発に便利であること、宇都宮には軍隊が駐屯していることなどでした。また、市場取引高を見てもけた違いに宇都宮がまさっており、町民感情としても移転運動は盛り上がりを見せたのです。はじめは栃木町の根強い反対運動もありましたが、1883年に三島通庸が県令となると、おどろくほどの速さで移転が決定されました。

県庁の新築工事にあわせて、大通りの貫通工事や諸官庁、学校などが整備され、宇都宮は名実ともに栃木県の政治・文化・経済の中心地となったのです。三島県令時代は2年足らずでしたが、江戸時代の本多正純とともに宇都宮の町並みを一変させた人物でした。

明治時代 2

1885年、埼玉県大宮駅から宇都宮までの鉄道が開通し、宇都宮駅が誕生しました。当時、宇都宮駅は停車場とよばれていましたが、翌年には日本最初の駅弁が白木屋によって発売されました。この路線は、1891年には青森まで開通し、1906年に国有化されました。また、日光線は1890年に全線が開通しています。

これ以外にも、1896年には大谷石の輸送と観光開発を目的とした宇都宮軌道運輸株式会社が、また、1898年には野州人車鉄道が設立され、人車鉄道(トロッコ)が走るようになりました。1906年にはこの2社は1つになって宇都宮石材軌道株式会社となり、荒針・新里・徳次郎の3路線の営業をおこないました。

大日本帝国憲法が発布された直後の1889年4月1日、市制町村制が施行され、宇都宮町と、旧宇都宮市を形成する11か村が誕生しました。宇都宮町では、町会議員選挙が行われ30名の議員が、また、その中から町長に矢島中、助役に田中勝次郎が選ばれました。翌年、収入役に松井元儀が選ばれ、22名の吏員が任用されました。宇都宮町役場は、現在の中央3丁目に置かれました。

1892年、それまで陸軍用地となっていた宇都宮城跡が払い下げになりました。本丸は旧城主の戸田家に、二の丸は士族一同に、三の丸は町有になりました。1890年になって、三の丸の土手をくずして三日月堀を埋め、二荒山神社前通りを延長して御橋をかけ、本丸に真っすぐ通じるようにしました。この年には、曲師町・江野町・材木町を結ぶ、現在のオリオン通り・ユニオン通りが開通になりました。

この時期の宇都宮では、企業熱が盛り上がった時期でした。特に、1896年に宇都宮銀行が設立されて金融活動が円滑になると、株式会社をはじめ、たくさんの企業が誕生しています。国重要文化財の旧篠原家住宅は、1895年に建てられたこの時期を代表する商家建築ですが、同様の豪壮な建築物がほかにも見られました。

1896年4月1日、宇都宮は市になりました。初代市長は町長であった矢島中でした。当時の人口は約35233人、戸数6991戸でした。市長の選出は、市会が候補者3名を国に推薦し、その中から内務大臣が決定する方法がとられていました。

旧篠原家住宅 明治時代の日本は、欧米の列強に遅れまいと海外への進出を図っていました。1894年の日清戦争では約100名、つづく1904年におこった日露戦争では、654名の出征者が宇都宮市から出ています。日露戦争による軍備拡張により、陸軍第14師団が福岡県の小倉で編制され満州に出兵していましたが、戦後、正式な駐屯地が宇都宮に決定され、1907年から次々に施設が建設されました。14師団が直接市内に落とす金額は、当時の市一般会計の5倍にあたり、市の商工業界に大きな影響を与えました。ここに、宇都宮は「軍都」という新しい顔を持つことになったのです。

1908年に14師団が宇都宮にやってくると、材木町から西へ大谷街道が開通し、さらに野砲兵第20連隊から師団司令部までの約1.4キロメートルに、軍道と呼ばれる道幅10間の道路が開通し、両側に約1000本のサクラが植えられました。

大正時代

大正時代に入ると、列国の帝国主義政策が衝突して、1914年に第一次世界大戦が起こりました。日本も、日英同盟を理由に参戦しドイツと戦っています。この時期の日本は、中国政府に二十一か条の要求を突きつけたり、1917年に起こったロシア革命を妨害するために、イギリス・アメリカ・フランスとともにシベリア出兵をおこなったりするなど、中国大陸に勢力を伸ばす動きを起こしました。

大正時代には、水道やガスが普及し都市生活が大きく変化しました。また、自動車交通が飛躍的に進展し、陸上輸送に大きな変化を見せ始めました。

宇都宮は、豊富な地下水がある一方、上町に比べて下町は不良水であったため、チフスや赤痢の流行に悩まされていました。また、釜川の水量は少なく、火災の被害も大きかったため、明治時代から水道をひくための議論が行われていました。足かけ4年にわたる大工事のすえ、大谷川を水源とする水道が完成したのは、1916年のことです。これにより、全戸数の32%が水道を利用するようになりました。

第一次世界大戦で直接の被害を受けなかった日本は、海外への輸出が伸びたことから空前の好景気となりました。しかし、国内では品不足による物価高が続いて人々の生活は苦しくなり、全国的に米騒動がおこりました。宇都宮でも、1918年1月に1石15円の米が、7月には30円を越すといった値上がりを見せています。

このような中で、1923年9月1日、関東大震災が起きました。東京・横浜では大規模な火災が発生し、死者・行方不明者が14万人を超えました。この大災害の中、大谷石で建築された東京の旧帝国ホテルが焼け残り、大谷石は、その耐火性・耐震性の優秀さが認められ、第一級の建築材として一躍有名になりました。

大谷石採掘の歴史は古く、奈良時代の795年に建立された下野国分寺の土台にも使われています。江戸時代には、本多正純の宇都宮城大改築にも利用されたほか、商店の石蔵や釜川の護岸に用いられている様子が『宇陽略記』に描かれています。また、鬼怒川を利用して江戸へ輸送され、隅田川沿いには大谷石をあつかう問屋が16軒あったといわれています。明治に入ると、鉄道の開通など陸上交通の発展にともなって販売網は関東一円に広がりました。しかし、大戦後の不況の中、職工たちは大谷石石材労働組合を組織してストを決行し、深刻な労働争議に発展しました。

大正時代には、大通り沿いに蔵造りの店が並び、1925年には、上野呉服店が東京風の百貨店形式の店を相生町に新築し、バンバのにぎわいともあいまって二荒山神社前が最大の繁華街になりました。また、乗合いバスやタクシー乗務員の洋装が人気を集め、このころには、軍道のサクラも成長し市内随一の名所になりました。

大正15年、市制30周年祝賀式が行われ、八幡山では東洋花火大会が開催されて三尺玉を打ち上げました。この年の人口は72238人、戸数15525戸となり、30年で倍増していますが、一方で、さまざまな都市問題を引き起こすことになりました。