歴史を知りたい
飛鳥・奈良・平安時代
飛鳥~奈良時代の宇都宮
長岡百穴古墳歴史上の時代区分では、大陸から仏教が伝わった6世紀半ばからを、都の置かれた地名をとって飛鳥時代と呼んでいます。大化の改新以後、日本の古代国家の形がしだいに整い、次の奈良時代になって確立するのです。
しかし、7世紀になっても豪華な古墳がつくりつづけられたため、墓の規模を小さくすることや副葬品を禁止する命令が出されました。しかし、宇都宮のような、都から遠くはなれた地方ではあまり守られなかったようで、立派な円墳や長岡百穴古墳のような 横穴群がつくりつづけられていました。
701年の大宝律令の制定の後、710年に奈良に建設された平城京に都が移され、律令国家の体制が確立しました。大宝律令の成立に深くかかわった人物として下毛野古麻呂という人の名が記録に残っています。この人物は宇都宮南部出身の豪族と考えられていますが、地方出身者としてはおどろくほどの出世です。
中央には二官八省が置かれ、貴族と呼ばれる大臣や高官が政治を行いました。地方は60あまりの国に分けられ、都から派遣された貴族が国司となってそれぞれの国を治めました。これらの国は、五畿七道に分けられていました。
栃木県は当時、下野国(しもつけのくに)と呼ばれ、七道の中の東山道に属していました。国を治める役所があったところを国府といいますが、下野国府は現在の栃木市に置かれていました。国は、さらに 郡・里(郷)に分けられ、地方の豪族を郡司(ぐんじ)や里長(りちょう)に任命して治めさせました。
下野国は9つの郡に分けられ、宇都宮の大部分は河内郡に属していました。郡を治める役所を郡衙といいますが、最近の発掘調査によって、上神主・茂原官衙遺跡が河内郡の郡衙であったことがわかりました。当時の役所は、瓦をふいた建物や掘立柱建物が立ち並ぶ立派な施設でした。宇都宮の水道山瓦窯跡では、国分寺や、河内郡衙の瓦を焼いていたことがわかっています。
このころの農民には、班田収授の法によって国から水田が与えられ、かわりに多くの税を納めるなど、きびしい公民としての義務を強いられました。水田は碁盤の目のように区画されましたが、これを条里と呼んでいます。農民はあいかわらず竪穴住居に住んでいました。山上憶良のよんだ貧窮問答歌には当時の農民の苦しい生活が表現されています。
奈良時代には中央と地方をむすぶ交通網が整備されました。下野国には東山道が通っており、税の運搬や軍用道路として利用され、文化の交流を支える役割もはたしていました。宇都宮では、上神主・茂原官衙遺跡や東谷・中島地区遺跡群、上野遺跡で 東山道と考えられる道路の跡が発見されています。東山道には、30里(約16㎞)ごとに7つの駅家がもうけられ交通を支えました。宇都宮には衣川駅家があったと考えられていますが、場所はまだはっきりとわかっていません。
下野国は、東北地方の豪族を押さえるために重要視され、下野薬師寺には、奈良時代に東日本で唯一の戒壇がおかれるなど、文化的な拠点ともなりました。
平安時代の宇都宮
京都に平安京がつくられ、都が移されたのは794年です。これから400年あまりを平安時代といいます。この時代のはじめは、律・令をおぎなう規則である格・式を定め、地方の政治もひきしめられました。しかし、都の造営や東北地方への遠征で財政がきびしくなり、しだいに地方政治もくずれていきます。
朝廷では、9世紀のころから藤原氏がほかの貴族を退けて政治の実権をにぎり、摂関政治が続きました。また、11世紀後半には、天皇が位を退いた後も上皇として引き続いて政治を行う院政が行われました。
地方の国では、自分の領地を守るために武装した武士が誕生します。武士は皇族や貴族の子孫をかしら(棟梁)とし、主従関係を結んで武士団をつくっていきました。10世紀の前半、関東地方で平将門が乱を起こしましたがこれをしずめたのも地方の武士団でした。武士団には源氏や平氏のように、都でも大きな力を持つほど成長したものもありました。
このころ、宇都宮の中心部は河原や沼・池が多い湿地帯で、池辺郷と呼ばれていました。二荒山神社のすぐ南には大きな池があり、ここから神鏡が発見されたので鏡が池と呼ぶようになったと伝えられています。その西に残る池上町という地名はその名残だと考えられます。二荒山神社は、平安時代のはじめには、下野国の中心的な神社として認められていたと考えられています。
平安時代の後半、現在の宇都宮城址公園のあたりに、その後の宇都宮城の元になる館が築かれたといわれています。築城者は、藤原秀郷とも藤原宗円ともいわれていますが確かな資料は残っていません。宇都宮系図の伝えるところによると、宗円は1053年に陸奥国鎮守府将軍となった源頼義にしたがい都からやってきた人物で、二荒山神社の社務職検校と宇都宮一帯の支配をまかされたとされています。それ以降、下野から常陸(ひたち)にかけての 鬼怒川流域の支配権を約500年にわたってにぎる名族、宇都宮氏になったというわけです。
この時代の集落跡は、瑞穂野団地遺跡など宇都宮市内でもたくさん見つかっています。このころの竪穴住居は一辺約4mと小型ですが、掘立柱建物や井戸も発見されています。また、住居跡からは紡錘車や鉄製の鎌・砥石などが出土していて、当時の生活の様子を知ることができます。
弘法大師の伝承の残る大谷寺は、平安時代のはじめごろから庶民の信仰を集めていました。国の特別史跡・重要文化財である寺の本尊、千手観音像が彫られたのもこのころです。この時期は、日光山を開いた勝道上人や円仁が活躍した時代であり、下野国でも仏教文化の充実した時期です。