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歴史を知りたい

縄文時代

縄文時代の宇都宮

今から1万5000年~1万2000年ほど前になると、土器を作り、本格的な弓矢をもった新しい時代が登場します。世界でも珍しい縄目の文様をもった縄文土器が使われたので、これから紀元前300年頃までを縄文時代と呼びます。

この時代は、動物や魚、植物をとってくらす生活が中心です。しかし、これらを生か焼いて食べる方法しか知らなかった旧石器時代とくらべ、土器を使った調理や保存の方法が非常に発達しました。弓矢は、それまでの投げやりにくらべ、遠くへ正確に命中させることができるようになり、個人の力だけでけものを捕らえることができるようになりました。

一口に縄文時代といっても、約8000年もの長い期間に、気候や動植物の様子もさまざまに変化したようです。縄文時代は古い順から草創期(1万5000~1万2000年前)・早期(1万2000年~6000年前)・前期(6000~5000年前)・中期(5000~4000年前)・後期(4000~3000年前)・晩期(3000~2500年前)の6つの時期に大きく分けられます。

草創期には、大谷寺洞穴遺跡のように狭い洞くつや岩陰を利用して生活する場合と、広い台地の縁辺に竪穴住居を建てて住む場合とがありました。

早期になると、気候が温暖になりつつあったためか、広い土地に集落を作るようになり、生活の安定にともなって集落の規模が拡大していったようです。

前期までは、さらに気温が上昇して氷河がとけて海水が増加したため、海岸線は栃木県南部にまで押し寄せていました。これを縄文海進といいます。藤岡町や野木町では貝塚が発見されていますが、そこからは海の貝が見つかっています。

生活環境に恵まれたこの時期は、人口も増加して大きな集落が生まれる一方、根古谷台遺跡のように、いくつかのムラが集会やまつりを行ったと考えられるような、特別な集落も発達しました。

根古谷台遺跡 中期になると、縄文人の生活は安定し人口はますます増加したので、竹下遺跡や御城田遺跡などのように大きな集落が形成されました。この時期は、豪華な文様がついた芸術的な土器が多く、土器の黄金時代ともいわれます。

縄文時代も後期から晩期になると、中期ごろから始まった気候の寒冷化と、増えきった人口を養うだけの食料を求めることができなかったためか、集落は次第に小規模になる傾向が見られます。

しかし、宇都宮周辺は山の幸・川の幸が豊かであったため、石川坪遺跡や刈沼遺跡のような集落がたくさん見られます。 また、土偶や石棒など、まじないに用いていたと考えられるものが見られるのもこの時期の特徴です。