歴史を知りたい
鎌倉時代
鎌倉時代の宇都宮
平安時代末期、壇ノ浦の戦いで平氏を、また、東北地方に勢力を持っていた奥州の藤原氏を滅ぼした源頼朝は、1192年に朝廷から征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命されました。頼朝は鎌倉幕府を開き、 諸国に守護・地頭を置いて武士の政治のもとを作りました。幕府が滅びるまでの約140年間を鎌倉時代といいます。
鎌倉時代の『吾妻鑑』という書物に、「源頼朝は奥州藤原氏を攻めるにあたり、宇都宮の古多橋に宿泊し、宇都宮大明神に参拝して戦勝を祈願した」という記録が残っています。二荒山神社は、いくさの神として各時代の武将達から崇拝されました。
宇都宮の中心地は、鏡が池と呼ばれる水辺をはさんで北に二荒山神社を中心とする聖なる場所が、南に宇都宮城を中心とする政治的な場所が向かい合っていました。その東を奥州に向かう奥大道が通り、道に沿って宿が成立していたと考えられます。
宇都宮氏は、宇都宮城を拠点とし、宇都宮大明神(二荒山神社)の宗教的権威と神領の支配を通じて勢力を拡大していきました。鎌倉時代には、評定衆や引付衆を勤める幕府の有力な御家人になっていました。
宇都宮氏は、下野から常陸にかけての領地のほかに、伊予(愛媛県)・豊前(大分県)の守護領や荘園をもっていました。分家が増え管理する寺社も多くなったため、1283年、これらを治めるために70か条からなる弘安式条を制定しました。これは、中世における武家法の草分けとされるものです。また、同じころ、現在の竹下町には芳賀氏の城として飛山城が築かれています。
宇都宮氏の祖とされている藤原宗円から3代目の朝綱のころには宇都宮氏を名のるようになり、地名にも使われるようになったといわれています。宇都宮氏は22代続きますが、この時代の城主の中には、百人一首の成立にかかわった5代頼綱、元寇の際に日本軍の大将軍となった8代貞綱などがいます。
頼綱が城主の頃、幕府から謀反の疑いをかけられる事件がおこりました。頼綱はやむをえず出家して蓮生と名のり、京都に住むようになります。そこで歌人として有名な藤原定家と親しくなり、蓮生の娘と定家の息子は結婚して親せきとなりました。当時、神社・仏閣や自宅のふすまに和歌を書いた色紙をはることがはやっていましたが、蓮生はこれを定家に頼みます。このときまとめられたものが元になって、現在の小倉百人一首ができていくのです。
宇都宮氏とその一族からは、多くの歌人が出ています。歌集『新古今和歌集』は、一族のほかに鎌倉、京都の歌人の歌もおさめられているもので、宇都宮一族の幅広い文化交流の様子を知ることができます。このような、宇都宮一族を中心とする歌人集団は宇都宮歌壇とよばれています。しかし、1333年に幕府が滅ぶと、宇都宮への文化的中継地を失い、また、戦乱の時代に、和歌に遊ぶ余裕もなくなって活動はおとろえてしまいます。