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歴史・文化財 資料アーカイブ

歴史・文化Q&A

  • 「御幸ヶ原」の地名の由来はなんですか?
  • 明治時代に、当時の陸軍が「平出が原」で軍事演習を行いました。この演習は明治天皇を迎えて挙行した盛大な行事であったことから、この周辺は「御幸ヶ原」と呼ばれるようになりました。
    天皇が外出することを、行幸(ぎょうこう、みゆき)や御幸(みゆき)と呼びます。
    明治時代の日本は、欧米の列強に負けない強い国を作るため、軍隊を作り、演習を積極的に行っていました。そのなかでも、明治25年(1892)と明治42年(1909)には、宇都宮の平出地区(当時「平出が原」と呼ばれていた)が演習地として選ばれました。演習は明治天皇を迎え、大いに盛り上がったことから、この地を「御幸ヶ原」と呼ぶようになりました。

    参考文献『写真でつづる宇都宮百年』『宇都宮市史』
  • 「宇都宮の歴史や文化財について質問したいのですが・・・
  • 郵便またはメールでお問合せください。
     あて先
      〒320-8540 宇都宮市旭1-1-5
      宇都宮市教育委員会文化課 文化財保護グループ
     E-mail
      u4607@city.utsunomiya.tochigi.jp
  • 「向明公園」の名まえの由来はなんですか
  • 馬場通り2丁目(旧 鉄砲町)にあるこの公園は、明治天皇が宇都宮に巡幸された時の行在所(あんざいしょ 旅先に設けた仮宮のこと)になった所で、そのときの建物が「向明館」です。向明館は昭和8年に国の史蹟に指定されましたが、昭和20年の宇都宮空襲により焼失し、翌年に政令で史蹟指定が解除されました。現在は、市の管理する公園として「向明児童公園」の名で親しまれています。
    この地は、江戸時代の豪商鈴木(津山)久右衛門の邸宅でした。1876(明治9)年6月に明治天皇が宇都宮城址での練兵を天覧されたおり、この鈴木邸が行在所に選ばれました。明治天皇は日本庭園造りの庭園をことのほか気に入られたようです。その後、明治14年の東京鎮台・仙台鎮台合同大演習の際にも行在所となっています。向明館は昭和8年11月に国の史蹟に指定され、市が入口に御影石の標識柱を建て、さらに監守員を置いて管理していましたが、昭和20年7月12日の空襲で焼失し、翌年に指定が解除されました。
  • 「関東七名城」とは宇都宮城のほかにどこですか
  • 唐沢山城(佐野市)・金山城(群馬県太田市)・多気城(茨城県つくば市)・忍城(埼玉県行田市)・前橋城(群馬県前橋市)・川越城(埼玉県川越市)・宇都宮城(宇都宮市)の七城です。ただし、多気城を除いて佐竹城(茨城県常陸太田市)を加えて七名城とする場合もあります。
    「関東七名城」という言葉が出てくるのは、下野庵宮住(しもつけあん みやずみ)の著した『宇都宮史』が最も古い史料です。これは江戸時代後期に書かれたもので、宇都宮大明神や社家中里家に伝来する文書資料を調査し、これを収録して考察を加えたものです。そのうち、「関東七名城」について記している「城地の部」では、宇都宮城をめぐる外観的沿革をまとめています。七名城には、江戸時代には城として機能していない中世の城が含まれています。また、何を基準に選ばれたか、誰が選んだのかについては説明されていません。
  • 「野口雨情」と宇都宮との関係を教えてください
  • 野口雨情は、太平洋戦争が激化する中の1944(昭和19)年1月19日、東京から姿川村鶴田(現 宇都宮市鶴田町)に疎開してきました。すでに病に冒されていた雨情は、翌年の1月27日に亡くなりましたが、当時住んでいた家は「野口雨情旧居」として残っています。
    昭和19年1月19日、雨情は、東京の戦火を避け現在の宇都宮市鶴田町にある羽黒山麓に求めた疎開地に移りました。すでに先年からの病が回復することなく、翌年1月27日に永眠しますが、現在、同地には「野口雨情旧居」が残っており、国の登録文化財となっています。昭和33年、宇都宮の文化人たちが雨情詩碑建設委員会を発足し、鶴田町の鹿沼街道北側に歌碑「あの町この町」を建立しました。平成17年11月に国の登録有形文化財に登録、平成30年2月に市の認定建造物に認定されています。
  • 宇都宮空襲の時、東小学校のまわりの人々はどうなったのですか
  • 空襲が始まると、多くの人は防空壕や商業高校のまわりの田んぼに逃げました。空襲が終わると、家を失った人々は親せきを頼って疎開(そかい)したり、焼けトタンを集めてバラックを建てて焼け跡の整理をしたりしました。
    空襲が始まると、東小周辺の人々は防空壕に逃げ込んだり、商業高校や周りの水田(戦争中は東小から少し北のあたりはまだ田んぼだった)の方に逃げたりしました。むしろ、防空壕に逃げ込んだ人のほうが、そこから出ることができず、ちっ息したり焼け死んだりした人が多かったそうです。空襲が終わって家に帰っても、家は焼けて無くなってしまいましたから、多くの人は身寄りを頼って田舎に疎開(そかい)するか、焼け跡のトタンなどを拾ってきてバラック(急ごしらえの小屋)を建て、焼け跡の整理をしたそうです。
  • 宇都宮空襲のときの「東小学校」はどんな様子でしたか
  • 東小のまわりにもたくさんの焼夷弾(しょういだん)が降り注ぎ、東小の校舎は全焼してしまいました。空襲の翌日には、亡くなった方の遺体が校庭に集められ、市内の人々は行方不明の家族や親せきをさがしに、東小に集まったそうです。
    焼夷弾は大きなケースの中に38発の小型の焼夷弾が入っていて、これが上空でばらけて落ちてくるのですが、このケースには鉄製のおもり(31キログラム)がついていて、これも落ちてくるのです。このおもりが地面に落ちると、勢いで直径7m、深さ1.5mもの大きな穴があくのです。この穴が、校庭や東側の道路にいくつもあいていたそうです。
    空襲で亡くなった方の遺体は、中央小や簗瀬小にも集められたそうですが、最終的には全て東小に集められ、市内の人々は行方不明の家族や親せきをさがしに東小に集まったそうです。
  • 「宇都宮空襲」の被害状況はどうだったのですか
  • 昭和20年7月12日深夜、宇都宮市は米軍のB29爆撃機による焼夷弾(しょういだん)爆撃を受けました。この空襲は、米軍資料から、宇都宮市街地にある中央国民学校を中心に半径1.2㎞の円内に焼夷弾を投下するよう計画されていたことがわかっています。死亡者数は620名、重軽傷者は1128名以上であり、宇都宮市街地の大半が焼失するという未曾有(みぞう)の大被害を受けました。
    「宇都宮空襲」は、太平洋戦争末期の1945(昭和20)年7月12日23時10分から、翌未明にかけて行われました(米軍資料によれば、12日23時19分~13日1時39分の2時間20分)。使用された爆弾は、爆風による破壊力を伴う「M47焼夷爆弾」362トンと、内部から六角柱のM69焼夷弾38発が分かれて落下する「E46集束焼夷弾」440.8トンです。この日は朝から雨が降り続き、多くの市民が「まさかこんな日の夜には空襲はないだろう」と考えていたため被害が拡大したと言われています。
  • 「中島飛行機」のあった場所の昔の町名は何ですか
  • 「中島飛行機」の敷地は、当時の「宇都宮市西原」、「横川村江曽島・上横田」、「姿川村西川田」にまたがっていました。このうち、「工場敷地」は宇都宮市西原から横川村江曽島にかけての地域、「飛行場」は横川村江曽島から上横田にかけて、「社宅や青年学校」は姿川村西川田となります。
    宇都宮にあった中島飛行機の正式名称は「中島飛行機宇都宮製作所」です。工場敷地約30万坪、飛行場敷地約40万坪、福利施設用地約40万坪におよぶ広大な面積をもち、昭和17年5月より用地買収が開始されています。昭和19年1月、陸軍戦闘機「疾風」の生産工場として本格的に生産を開始し、終戦までの総生産機数は748機であったといわれています。
          参考文献 『戦災記録保存事業報告書 うつのみやの空襲』
  • 「宇都宮実践女学校」とはどんな学校だったのですか
  • 前身は明治43年に西小学校内に創立された「市立技芸学校」で、大正4年に現桜小学校に移転し、大正12年に「宇都宮実践女学校」と改称。その後2度の改称後、昭和24年に宇都宮女子高に合併された女学校です。
    明治43年の創立当時は「市立技芸学校」といい、西小の旧校舎を利用していました。しかし、大正3年に校舎を焼失して鉄砲町の鈴木方に移転、翌大正4年に現在の桜小の地に移転しました。大正7年に「第一高女(現宇女高)」の実科(裁縫、農業、商業)が廃止になると入学希望者が急増し、大正12年に「宇都宮実践女学校」と改称し、昭和5年に敷地拡張するなど、高等女学校としての体裁を整えます。その後、「宇都宮市立宇都宮高等女学校」、「宇都宮市立宇都宮高等学校」と改称し、昭和24年に「栃木県立宇都宮女子高等学校」に統合されました。
  • 新撰組の「土方歳三」は、宇都宮の戦いで銃弾を浴びたのですか
  • 1868(慶応4)年正月3日の鳥羽伏見の戦いにはじまる戊辰戦争のうち、宇都宮城をめぐる攻防戦の際に旧幕府軍参謀の土方歳三は足首を銃弾で打ち抜かれ、その後の会津戦争では戦線離脱しています。
    戊辰戦争のうち、1868年4月中旬から5月初旬にかけては下野を中心に激しい攻防が繰り広げられ、宇都宮とその周辺でも①旧幕府軍による宇都宮城占領、②安塚の戦い、③六道辻の戦い~新政府軍による宇都宮城奪還、といった激戦が展開されました。土方歳三が足首を銃弾で打ち抜かれたのは、③の宇都宮城松が峰門付近の白兵戦です。夕刻、新政府軍の救援部隊の到着により戦局は急転、宇都宮城と二荒山神社に立てこもっていた旧幕府軍は、一斉に八幡山から北方に逃れ、日光へと逃れていきました。
  • 緑が丘小学校周辺の古い地名「嘶(いなな)き」の由来を教えてください
  • 「嘶き」は古くからの小字(こあざ)名で、緑が丘小学校周辺から大和3丁目、鶴田に分布しています。なお、『姿川村史』の地図には、『嘶橋(いななきばし)』という旧跡が記されています。この地名には八幡太郎(源義家)伝説があるようです。
    『姿川村史』には次のような話が紹介されています。
    「鶴田の東南、西川田の東北で、江曽島の3ケ村に接する所、用水堀に架した橋を嘶橋という。・・・(中略)・・・後冷泉天皇の康平5年、奥州の豪族安倍頼時の子、貞任、宗任が反乱を起こした。朝廷は源頼義を陸奥守兼鎮守府将軍に任じて追討を命ぜられ、頼義の子八幡太郎義家も奥州に下向した。義家軍を率いてこの橋にさしかかった時、愛馬が突然数回いなないた。義家が不審に思い付近を探索させると敵の伏兵を発見し、ことなきを得たという。
  • 陽南・陽西などの「陽」はどんな意味ですか
  • 宇都宮には、「陽南」「陽西」「陽北」「陽東」という地域名があります。これは、江戸時代に宇都宮の中心市街地を「宇陽(うよう)」と呼んでいたことにちなんで、昭和初期の土地区画整理事業の際につけられた呼び名です。つまり、これらは中心地から南・西・北・東に開発された地域という意味です。
    そもそも地名に「陽」の字をつけるのは、古代中国の陰陽学の影響を受けた呼び方で、人間が陽気を尊ぶところから、人の集まるところ・にぎやかなところ・中心都市の意味として使われました。古い中国の都市にも「洛陽・漢陽・遼陽・瀋陽」などが見られますが、中国思想を広く取り入れた江戸時代の日本でも、美作(みまさか)国を「作陽」と呼んだり、京都を「洛陽」と称し京都に行くことを「上洛」「入洛」と言ったりしました。ただし、陽南・陽西などの地域名は、昭和初期当時と現在では、指す地域に違いがあります。
  • 「宇都宮」の地名の由来は何ですか
  • 「宇都宮」という地名がいつから使われるようになったか、正確な年代まではわかっていません。しかし、鎌倉時代に入ると二荒山神社の周辺を呼ぶ地名として用いられるようになります。今からおよそ800年前のことです。
    古くは二荒山神社周辺を「池ノ辺(いけのべ)」と呼んでいたようです。これは、神社の南側が広く湿地帯になっていたためです。平安時代の終わりごろには、藤原宗円(そうえん)が二荒山神社の社務職および下野国を所領してこの地に居住したといわれています。二荒山神社は別名「宇都宮大明神」とも呼ばれていましたが、3代目の朝綱(ともつな)のころにはこの神社の別号であった「宇都宮」を氏として名乗り、鎌倉時代頃から地名としても用いられるようになったと考えられています。
  • 豊郷地区のまほろばの道の「まほろば」とはどんな意味ですか
  • 「優れた良いところ、すばらしいところ、国の中心」といった意味です。
    『古事記-中巻-景行天皇』に、「やまとは くにの まほろば ・・・」という有名な一文があります。広辞苑では、「まほら」のところに「優れた良い所、国」という意味が述べられています。「ま(真)」は接頭語、「ほ(秀)」は抜きんでたもの、すばらしいという意味、「ら」は漠然と場所を示す意味の接尾語と考えられています。まほろ・まほら・まほらば・まほろば等の言い方がありますが、全て同じ意味です。
    宇都宮の豊郷地区の「とよさと」という名まえにも同じような意味が読み取れますね。
  • 「徳次郎」の呼び名と由来について教えてください
  • 行政町名では「トクジロウ」となっていますが、地元などでは一般に「トクジラ」と呼ばれています。
    徳次郎という地名は、日光に勢力を持っていた久次良(くじら)氏の一族が、奈良時代末期の778年に、日光山神社(日光二荒山神社)から御神体を千勝の森(現 智賀都神社)に勧請し、山を下ってこの地に住み勢力を張ったことに由来するといわれています。このとき、日光の宗家「久次良氏」に対して、「外久次良((そ)とくじら)氏」を称したことによるといわれています。
    読み方は、「トクジロウ」「トクジラ」がありますが、どちらかだけが正しいとは言いにくいようです。現在の行政町名では「トクジロウ」となっています。
  • 今から100年前の宇都宮の様子を教えて下さい
  • 1884年に栃木県庁が現在の地に建てられ、翌年に鉄道(現在のJR宇都宮線)が開通すると商業都市として栄え、1896年にはそれまでの町から市に変わりました。 また、日露戦争後には宇都宮に陸軍第14師団が置かれ、「軍都」と呼ばれるようになりました。
    ちょうど100年前の1904(明治37)年は日露戦争が始まった年です。宇都宮からの出征者は654名で、戦死・戦病死者は40名にのぼりました。
    そのころの宇都宮市は現在と範囲が違い、12の市や村がありました。ちなみに、平石・清原・横川・瑞穂野・城山・豊郷・国本・富屋・篠井の9村が1954年に、翌年に雀宮町・姿川村が合併して、現在の宇都宮市が誕生しています。
                                   参考文献 『写真でつづる宇都宮百年』