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歴史・文化財 資料アーカイブ

宇都宮の人物伝

「前方後円墳」の名付け親

蒲生 君平

がもう くんぺい

蒲生君平像(市指定文化財・蒲生神社蔵)

蒲生君平とその時代

明和5年~文化10年
(1768-1813)
名は秀実(ひでざね)
通称は伊三郎
号は修静庵
字は君平・君臧

宇都宮の新石町(現・小幡1丁目)の燈油商に生まれました。
父の名は福田正栄(又右衛門)父の死後、兄が家業を継ぎました。

6歳のとき、延命院で住職の良快和尚から読み書きを教わり、その後、鹿沼の儒学者鈴木石橋(せっきょう)や黒羽藩家老鈴木為蝶軒(いちょうけん)に師事しました。幼いころ、祖母より先祖が会津城主蒲生氏郷(うじさと)であることを教えられ、成長してから自ら姓を蒲生と改めました。

足利学校が興廃していると聞き、寛政5年(1793)に当時の庠主・青郊を助けて、その復興にも尽力しました。

藤田幽谷、林子平、高山彦九郎と交友があり、享和元年(1801)に吉祥寺の近くに学塾「静修庵」を開き、文筆活動に励みました。

寛政8年(1796)から同9年と、寛政12年(1800)の2回、荒廃した天皇陵を調査して享和元年(1801)には『山陵志』を完成させ、文化5年(1808)にそれを出版しました。その中で、はじめて「前方後円」墳という名称が使われたのです。

宇都宮藩の藩校・修道館の設立に参画していたとみられ、昌平坂学問所主宰・林述斎にも師事しています。

文化10年7月5日、江戸で没しました。46歳でした。
谷中(現・東京都台東区)の臨江寺(りんこうじ)に葬られましたが、後に宇都宮の桂林寺に分葬されています。

著書に『不恤緯(ふじゅつい)』、『山陵志(さんりょうし)』、『職官志(しょっかんし)』、『今書(きんしょ)』、『皇和表忠録(こうわひょうちゅうろく)』があります。
蒲生君平、林子平、高山彦九郎の三人は「寛政の三奇人」と呼ばれています。
※文末「もっと知りたい人のために」参照

没後に、水戸藩彰考館総裁・藤田幽谷(東湖)が「墓表」を、滝沢馬琴が「蒲の花かつみ」、『大日本史』を完成させました。水戸出身の歴史学者の栗田寛は「蒲生君臧事蹟考」を著わしており、いずれも貴重な君平伝となっています。

【主な著作】
○『今書』文久3年(1863)政治論として書かれ、神祇・山陵・姓族・職官・服章・礼儀・民・刑・志の九志の構想に発展した。○『不恤緯』文化4年(1807)当時懸念されていたロシアの進出に対し、国防論を建白し、その中で、士族に頼らず、民兵を用いることが得策であると論じている。萩の松下村塾からも出版されている(安政5年刊)(1巻のみ=文化8年刊、全巻=天保2年刊)。○『職官志』文化7年(1810)頃 朝廷の官職、官位、身分階級、官制を解説した書物。○『山陵志』寛政12年(1800)頃 荒廃した近畿地方の陵墓(歴代天皇皇族の墓)を調査した研究書。取り扱われているのは、天皇の陵墓。○『皇和表忠録』明治元年(1868)多くの学者が外国の忠臣のみを唱導するのに対して、深く我が国の歴史を顧み、古典のうちにすでに君臣の大儀の明らかであることを弁じたもの。

蒲生君平と前方後円墳

蒲生君平が生きた時代の特徴として、近畿地方の歴代天皇の御陵荒廃がありました。この状態を君平はおおいに嘆き、その復興を志して皇陵を探索しました。この西遊は2回行なわれました。

第1回目 寛政8年(1796)11月から翌年7月まで。
第2回目 寛政12年(1800)1月から同年5月まで。

その根底には、徳川光圀の遺志を継承して、『大日本史』の志類の一つに編入してもらうとともに、山陵修補事業を実現させようという志がありました。その参考資料として『山陵志』を著そうと考えていたと思われます。撰述に当たっては、上記の2度の西遊の途上で本居宣長と会見し参考意見を聴取するとともに、その調査には、大和国(奈良県)では竹口栄斎・堤広庵、河内国(大阪府)では金剛輪寺作成の覚峰、山城国では平安和歌の四天王の一人とされる小沢蘆庵、聖護院宮大官の畠中頼母、安楽寿院内金蔵院住職の泰深、儒者の若槻幾斎らの献身的な協力がありました。

文化5年(1808)『山陵志』が完成したものの、幕府による直接の山陵修復は実現しませんでした。しかしそれから64年後、君平の山陵修復という遺志は様々な経緯を経て、出身地である宇都宮藩が行なうことになったのです。(これについては後述します。)

この『山陵志』で初めて名称として与えられた「前方後円墳」という名称がつけられた経緯としては、当時、前方後円墳が一般に「車塚」という名称で呼ばれていることに注目し、古墳を横から見た形を貴人が乗る御車に見立てていました。低い前方部を馬に引かせる2本の長柄の部分で、丸い後円部が貴人が乗る部分で円蓋のある車の部分を指していると解釈しました。長柄部分が車の進む方向、すなわち前方と考えたのです。

蒲生君平と宇都宮藩

18世紀後半になると、約10万人の餓死者が出たといわれる天明の大飢饉をきっかけに、全国で年貢軽減を求める一揆の多発や、蝦夷地をはじめ、日本周辺に通商を求める外国船の出没など、国内が不安定になり、老中松平定信の「寛政の改革」や老中水野忠邦の「天保の改革」と政治改革を試みるが、成果は上がらず、経済状態はいっそう悪化し、幕府に対する不満は拡大の一途をたどっていきました。

そんな中で文久2年(1862)坂下門外の変がおきます。宇都宮藩の儒者大橋訥庵(おおはしとつあん)が、公武合体をすすめていた老中安藤信正の暗殺を水戸藩士と共に行なうが失敗しました。これら攘夷派一味は逮捕され、宇都宮藩では赦免運動を展開し、半年後に大橋訥庵や菊池教中は赦免されましたが、二人とも数日後に病死しました。この事件により公武合体運動は衰退し、朝廷の力が増大していきました。

坂下門外の変で宇都宮藩からも多くの共犯者がでたために藩は窮地に立たされ、その打開策として県信緝により提案され、筆頭家老の間瀬忠至の容れるところになりました。また、宇都宮藩主戸田忠恕(とだただゆき)の名において、幕府からのご沙汰をかわすために郷土の偉人たる蒲生君平の『山陵志』に基づき、幕府に「山陵修補」を願い出て許されました。江戸城中に呼ばれた忠恕は山陵御取締向御普請方に任じられ、当年分の費用として5000両の御下賜を受けました。忠恕は間瀬忠至を現場責任者とし、戸田一門格として戸田忠至(とだただゆき)と改名させました。忠至は朝廷から山陵奉公に任じられ、修補工事は文久3年(1863)初代天皇といわれる神武天皇陵から始められました。以後3年の月日を費やし、130を越える御陵を修復しました。この功績が認められ、山陵奉行の戸田忠至は、慶応2年(1866)宇都宮藩から一万石を分け与えられ、徳川幕府最後の大名に任ぜられました。

その最中の元治元年(1864)水戸脱藩者を中心に筑波山で挙兵した尊王攘夷軍「天狗党」約170名余が宇都宮に現れました。天狗党は「坂下門外の変」以来、宇都宮藩を尊王攘夷派の先駆けと思っていたらしく、その助力を得て、日光山を占拠するつもりでいた。しかし、家康以来譜代大名である宇都宮藩としては、幕府が認めない攘夷に同意することはできず、山陵修補の実情については前述したとおりなので、天狗党には参加しませんでした。この後、天狗党は各地で豪商への資金要求や焼き打ちなどを犯し、民衆の支持を失っていきました。

大平山に集まった天狗党はその後再び筑波山に立てこもり、幕府はついに討伐することになりました。宇都宮藩も483名を出兵させましたが、途中で宇都宮藩兵は幕府に無断で戦線を離脱してしまいました。これも含めて、これまでの煮え切らない宇都宮藩の態度に幕府は激怒し、元治2年(1865)1月、宇都宮藩7万5千石を5万石に縮小、藩主・戸田忠恕を謹慎・隠居を命じました。さらに戸田家に奥州棚倉城(福島県棚倉町)へ領地替えの内命がでました。その事態に対し、県信緝の献身的な奔走により山陵修補の功績が認められ、同年10月15日に領地替えが中止となりました。さらに26日には忠恕の謹慎も解かれ、減封も沙汰止みとなりました。

このようにして、蒲生君平の遺業により、幕末の宇都宮藩は大いに助けられたのです。

宇都宮市内の蒲生君平ゆかりの地

蒲生君平 生誕の地(小幡町オノセビル)

オノセビル正面の説明板

蒲生君平 生誕地之碑(オノセビル北側)

蒲生君平 修学の地(延命院:泉町)

蒲生君平 墓所(桂林寺:清住)

蒲生君平の墓(桂林寺内)

蒲生君平 勅旌碑(新町)

蒲生君平 勅旌碑(新町)

 

明治天皇は明治2年蒲生君平の偉功を追賞されて、その偉功を衆人に知らせる里門旌表 (りもんせいひょう)のことを時の宇都宮藩知事戸田忠友に命じました。忠友は早速その奉行となり、当時宇都宮宿の入口であった南新町の日光街道沿いに高さ1.3mの石碑を建てました

 

蒲生神社

蒲生神社は蒲生君平99年祭の明治15年に計画され、大正6年に「蒲生会」(会長戸田忠友)が結成され、神社建立のための運動が本格化しました。大正10年崇敬者総代鮫島重雄陸軍大将ほか85名より創建願が提出され、大正15年に社殿が竣工し、昭和15年に県社に列せられています。

鳥居は27代横綱栃木山守也(明治25年下都賀郡赤麻村大前・現藤岡町)が奉納したものです。
また、社殿前には日下開山初代横綱力士明石志賀之助碑と近年建立された明石志賀之助像があります。社殿の前には山梨勝之進 元海軍中将・元学習院院長 撰文の碑(昭和39年)があります。

もっと知りたい人のために

「寛政の三奇人」/ 高山 彦九郎

たかやま ひこくろう

延享4年~寛政5年(1747~1793)
上野国新田郡細谷村(現・群馬県太田市細谷町)の裕福な農家に生まれました。この地の新田が示すとおり、新田義貞の領地であり、祖先はその重臣であったとされています。

後醍醐天皇を支えた新田義貞の家臣ということからか、幼少の頃に読んだ「太平記」で、南朝が正統とならなかったことに憤りを覚え、強い尊皇思想を抱くようになりました。

18歳の時、京に上り、三条大橋のたもとから御所に向かい、土下座して拝礼をしたという言い伝えがあります。(現在の三条大橋のたもとにその銅像があります。)
京で学者を目指し漢学を学んだあと、全国を旅し、様々な人々と出会い、明治維新の根本を成す尊皇論として多くの人物に影響を与えました。しかし当時の幕府に睨まれることとなり、九州久留米で自刃して生涯を終えました。47歳でした。

「寛政の三奇人」/ 林 子平

はやし しへい

元文3年~寛政5年(1738~1793)
名は友直(ともなお)

江戸小石川に生まれました。寛保元年(1741)に父が同僚を殺傷し、浪人になったため叔父に預けられました。

姉が仙台藩六代藩主伊達宗村の側室になった縁で、兄が仙台藩士に召し上げられたため、兄と共に仙台に移り住みました。子平の身分は無禄厄介というものであったが、逆に自由な立場であったため、長崎に赴き見聞を広めました。ヨーロッパ諸国に危機感を抱き、ロシアの南下策を知って、日本を植民地化から防ぐために蝦夷地の確保を説いた『三国通覧図説』や、日本の海岸の総軍備という論旨の『海国兵談』を著しました。しかし幕府はいたずらに世間を惑わす行為として取締り、版木を没収して罰しました。後に幽閉され、病没します。56歳でした。

後に、文化4年に蒲生君平が海防の必要性を幕府に提示するために著した『不恤緯』の序文で、幕府が子平の無実を認めるべきことが記されています。

〈参考文献〉
阿部 邦男 「宇都宮藩による山陵御修補事業の実態―県信緝と戸田忠至を中心として―」『明治聖徳記念学会紀要』復刊25 1998年12月
阿部 邦男 「宇都宮藩による山陵御修補事業の背景―藩主戸田家の家系・家風と県信緝の存在を通して―」栃木県歴史文化研究会誌『歴史と文化』8 1999年8月
阿部 邦男 「宇都宮藩による山陵御修補事業の諸問題克服と事業完成の歴史的意義」『神道史研究』18の1 2000年1月
※なお、本文の作成にあたっては、阿部邦男氏の多大なる御協力をいただいた。