歴史・文化財 資料アーカイブ
宇都宮の人物伝
百人一首ゆかりの武将
宇都宮頼綱(蓮生)
(うつのみや よりつな/れんしょう)
蓮生像〔京都三鈷寺蔵〕〈部分〉
鎌倉時代前期の御家人 宇都宮第5代城主、歌人
治承2年~正元元年(1178-1259)
父は第4代宇都宮業綱(なりつな)
母は平長盛(たいらのながもり)の娘
弟は歌人として有名な塩谷朝業(ともなり)
※『続群書類従』所収宇都宮系図や『下野国史』では、正元元年(1259)11月12日に88歳で亡くなったとあります。逆算すると承安2年(1172)の生まれということになりますが、正嘉元年(1257)2月15日の涅槃会の日に頼綱入道蓮生法師の八十賀が京都で催されており、この年が80歳だったとすると没年には82歳であったこと、また父業綱が建久3年(1192)に27歳で亡くなったとする記載と照合すると父業綱7歳のときの子となることなどから、多くは治承2年(1178)生まれとする説で紹介されています。
御家人としての宇都宮頼綱
宇都宮頼綱が『吾妻鏡』に初めて登場するのは、建久4年(1193)5月29日で、富士の裾野の巻狩りに参加し、前夜討ち入った曽我五郎時致(ときむね)が捕らえられ、源頼朝の前に引き出された席に侍していました。頼綱は16歳だったと考えられます。父業綱が没した翌年で、祖父朝綱(ともつな)の代理であったと考えられます。また、建久5年(1194)2月2日の北條泰時(やすとき)の元服の際にも列席しています。
建久5年(1194)5月20日、祖父の朝綱が公田(くでん)を掠め(かすめ)取っ たとして訴えられました。7月28日に朝綱は土佐国へ、孫頼綱は豊後国へ、同じく朝業は周防国への配流の決定がなされました。その後、正治元年(1199)6月30日、源頼朝の息女三幡(さんまん)姫の葬儀に頼綱が出席しています。すでに事件後の謹慎も終わっていたようであり、隠退した祖父に代わって名実ともに宇都宮家の惣領の立場となり、幕府に仕えていたと考えられます。
しかし、元久2年(1205)8月7日、宇都宮頼綱が謀反を起こしたという報が鎌倉に届きました。頼綱は謀反など起こすことはないという書状を急ぎ鎌倉に送り、8月11日に小山朝政(ともまさ)の文も副えて〈執権〉北条義時に提出されましたが、それでも疑いが晴れず、16日には潔白の証として剃髪して出家し、名を蓮生法師と改めて急ぎ鎌倉に向かっています。19日には鎌倉に到着し、義時の邸宅に参上しましたが対面はできず、その後結城朝光(ともみつ)に髻(もとどり)を献上し、朝光はそれを義時に届けています。結果、行き着く暇もない行動で誠意を示したことにより、義時は頼綱の罪を問うことはなく、頼綱は出家の道に入りました。このとき、頼綱はまだ28歳でした。
出家した蓮生は、承元2年(1208)11月8日に摂津国勝尾寺(かつおうじ)(大阪府箕面市)の草庵で念仏の教えを説いていた法然上人を尋ねて、それ以後熱心な念仏門の弟子になっています。法然の死後はその弟子である京都西山善峯寺(にしやまよしみねでら)の証空上人を師として、終生信仰を持ち続けました。しかし、建保2年(1214)5月7日、春に戦火で焼かれた三井寺(みいでら)(滋賀県大津市)の復興事業において、山王社の本殿・拝殿の再建を幕府から命じられているように、蓮生は出家したとはいえ、その後も幕府に奉仕しており、宇都宮家の当主の立場にあったようです。承久3年(1221)5月の承久の乱では、宇都宮入道蓮生が鎌倉にいて後詰めの事に当たっていたとあります。
謀反の疑いにより早くに出家した頼綱でしたが、有力な御家人として鎌倉幕府に仕え、頼綱の子第6代泰綱(やすつな)や孫の第7代景綱(かげつな)が幕府の重職である評定衆や引付衆を務めたように、鎌倉時代における宇都宮氏の政治的基盤を築いた人物といえます。
宇都宮頼綱(蓮生)と百人一首
頼綱は、祖母も母も都育ちの人であるので、幼少のころから和歌に親しんでいたと思われます。 建久5年(1194)の公田掠領(りゃくりょう)事件の流刑の際、当時17歳の頼綱の歌が秋の詠として『新○和歌集(しんまるわかしゅう)』にあります。
祖父の配所へ赴き侍りけるに中山といふ山を越ゆとて
蓮生法師
行く末もおぼつかなきをいかにして知らぬ山路を一人越ゆらん
(『新○和歌集』巻六覊旅四四四)
元久2年(1205)に出家して京都に居を構えた蓮生は、和歌を通じて当代随一の歌人藤原定家と親しくなり、指導を仰いでいたと考えられています。『明月記』の嘉禎元年(1235)閏6月20日の記事に京都の宇都宮邸の位置が記録されており、現在の四条通りの一筋北の錦小路と新京極の通りのやや西の富小路の交わったあたりであることが知られています。藤原定家の京極邸はその北東約1.5km弱の二条寺町にありました。
蓮生と定家の関係は親密さを増し、定家の子息為家(ためいえ)に蓮生の娘が嫁いでいます。二人の間には為氏(ためうじ)・為教(ためのり)が生まれており、為氏が貞応元年(1222)生まれであることから、婚姻の年はそれ以前と考えられます。
寛喜元年(1229)には、藤原定家と藤原家隆の2人の歌人が、宇都宮大明神(二荒山神社)で神宮寺を作ったときに襖を飾る障子歌として、大和国の名所歌十首を色紙に書いて贈っています。
そして、嘉禎元年(1235)夏、藤原定家は蓮生に依頼されて、京都の西の郊外、嵯峨の中院に蓮生が立てた山荘の障子歌色紙を書いて贈っています。
廿七日 己未、朝、天晴る。殿下一昨日より五ヶ日、善恵房の戒なりと云々。典侍参り、未の時ばかりに帰る。予本より文字を書くことを知らず。嵯峨中院の障子の色紙形を、予書くべきの由、彼の入道懇切なる故に、極めて見苦しき事といへども、なまじひに筆を染めて之に送る。古来の人の歌各一首、天智天皇より以来、家隆・雅経に及ぶ。夜に入り金吾に示し送る。(後略)
(『明月記』嘉禎・元・五・二七 原漢文 『宇都宮市史三中世通史編』 P201より)
この色紙歌は『百人秀歌』と考えられ、後に後鳥羽院や順徳院の歌などを加えて整理されて「小倉山荘色紙和歌」と呼ばれ、「小倉百人一首」の原形になったといわれています。
宇都宮歌壇と宇都宮頼綱(蓮生)
蓮生と藤原定家との親交のように、都の文化人との交流もあり、宇都宮一族の中に多くの歌人が生まれています。そうした宇都宮一族の和歌を中心にまとめられたのが『新○和歌集』です。
『新○和歌集』は藤原定家と蓮生の孫にあたる藤原為氏の撰によるとされ、186人の875首が収められています。蓮生の死(正元元年(1259)11月12日)の直前、正元元年(1259)9月ごろに完成されたと考えられています。蓮生の59首をはじめ、信生(しんしょう)(塩谷朝業)、蓮瑜(れんゆ)(宇都宮景綱)などの宇都宮一族に源実朝、藤原定家と為家親子など、京都、鎌倉を代表する歌人が名を連ねており、宇都宮一族の文化レベルの高さや人脈の広さを示しています。二荒山神社に寛文12年(1672)の写本が伝わっており、奥書に藤原為氏が宇都宮に下向した際に撰したもので「新式和歌集」と言ったが、ある事情があって一字を除いたと記されていて、以来、「新○和歌集」と呼ばれています。
また、個人の歌集においても、蓮生の弟塩谷朝業(信生)の『信生法師集』、朝業の子笠間時朝(かさまときとも)の『前長門守時朝入京田舎打聞集(さきのながとのかみときともにゅうきょういなかうちぎきしゅう)』、蓮生の孫宇都宮景綱(蓮瑜)の『沙弥蓮瑜集(しゃみれんゆしゅう)』が残されているほか、横田頼業(よこたよりなり)(蓮生の二男)、八田時家(はったときいえ)(朝綱の弟八田知家(ともいえ)の子)、武茂泰宗(むもやすむね)(蓮瑜の三男)が勅撰集などに名を残しています。こうした人々を中心に歌会が宇都宮や笠間などで催されており、宇都宮歌壇と称される鎌倉に次ぐ地方歌壇の盛況を見せました。
蓮生の和歌は、『新○和歌集』に59首が収められているのをはじめ、『新勅撰和歌集(しんちょくせんわかしゅう)』(3首)、『続後撰和歌集(しょくごせんわかしゅう)』(6首)、『続拾遺和歌集(しょくしゅういわかしゅう)』(6首)、『新後撰和歌集(しんごせんわかしゅう)』(6首)などの勅撰和歌集には39首が撰ばれており、重複を除くと約90首ほど現存します。正嘉元年(1257)2月15日には、涅槃会を期して蓮生法師八十賀が京都で行われました。婿の藤原為家は六曲屏風左右一対の十二面に各所絵を描かせ、各月の歌十二首を加えて蓮生法師八十賀屏風歌として贈っています。こうして多くの歌人と交遊を持ち、宇都宮歌壇の礎を築いた蓮生は、正元元年(1259)11月12日に82歳で亡くなりました。
宇都宮市内の宇都宮頼綱ゆかりの地
宇都宮頼綱が建保5年(1217)に宿郷村の御室(おむろ)観音境内に念仏堂を建立しました。天正元年(1573)、芳賀高継(たかつぐ)が兄高照(たかてる)の菩提のため念仏堂を移し、清原(芳賀)氏の一字を冠して清巌寺と称しました。また、江戸時代から明治22年(1889)まで、寺の門前一帯は清巌寺町と呼ばれていました。本堂は戊辰の役で焼失し明治16年(1870)に再建されましたが、「芳宜邸(はぎてい)」の扁額を掲げた中門は戦火をまぬがれ、江戸中期の優雅な姿を残しています。
文化財では国指定重要文化財の「鉄塔婆」をはじめ、本尊の木造阿弥陀如来坐像(市指定)や戸室元蕃(げんば)作の銅鐘(市指定)があります。また、蓮生(宇都宮頼綱)の墓や芳賀高照・高継の墓と伝える宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。なお、蓮生の墓は京都の三鈷寺(さんこじ)にあるので、ここにある墓は後世の供養塔と考えられています。
もっと知りたい人のために
塩谷 朝業(信生)
(しおや ともなり/しんしょう)
~嘉禎3年(1237)
父は4代宇都宮業綱
母は平長盛の娘
5代頼綱(蓮生)の弟
鎌倉時代前期の御家人。塩谷家を継ぎ、矢板川崎城主となる。
歌人としても有名で、『信生法師集』を残している。
建久5年(1194)、祖父朝綱の公田掠領(くでんりゃくりょう)の罪に連座して、兄頼綱同様、周防国への配流の決定がなされましたが、その後元久2年(1205)、謀反の疑いにより兄頼綱が出家してしばらくは、朝業が宇都宮一族を代表して鎌倉に出仕しました。朝業は後に塩谷を称し、川崎城に居を構えますが、当時は「宇都宮四郎朝業」として『吾妻鏡』にその名が見られます。
鎌倉では3代将軍源実朝の側近として仕え、『吾妻鏡』建暦2年(1212)2月1日には二人の歌の贈答が見られます。
一日 戊寅。未明に、将軍家和田新兵衛尉朝盛をもって御使となし、梅花一枝を塩谷兵衛尉朝業に送り遣はさる。この間仰せていはく、「名をつげず、たれにか見せんとばかりいひて、御返り事を聞かずして帰り参るべし。」と云々。朝盛、御旨に違はず、すなわち走り参らんとす。朝業、追ひて一首の和歌を奉る。
うれしさも匂も袖に余りけり我が為おれる梅の初花
(『吾妻鏡』建暦二・二・一 原漢文 『宇都宮市史三中世通史編』 P194より)
なお『新○和歌集』では、実朝から贈られた歌は、「鎌倉右大臣家より梅をおりて給とて」と詞書して、
君ならでたれかにみせん我が宿ののきばに匂ふ梅のはつ花
とあります。
しかし、承久元年(1219)正月27日、将軍実朝が暗殺されました。朝業はその日も実朝に仕えており、惨劇を目前にします。朝業には母を失っていた幼い2人の子がまだ手元にいたので、一旦川崎城に戻り、一年ほど後の承久2年(1220)に出家して信生法師となりました。信生は、兄蓮生のもとに身を寄せ、直ちに京都西山善峯寺の証空に師事し、念仏門に入っています。
出家した信生は、元仁2年(1225)2月10日に東国への旅に出ています。このときの歌日記が『信生法師集』で、前半は日記部、後半が歌集部になっています。前後半合わせての総歌数は他人の作も含め、208首にのぼります。
信生の和歌は、個人の歌集以外にも『新○和歌集』に34首が収められているほか、『新勅撰和歌集』(1首)、『続後撰和歌集』(2首)、『続古今和歌集(しょくこきんわかしゅう)』(2首)などの勅撰和歌集に13首が撰ばれています。
宇都宮 景綱(蓮瑜)
(うつのみや かげつな/れんゆ)
嘉禎元年~永仁6年(1235-1298)
父は第6代宇都宮泰綱
母は名越北条朝時(ともとき)の娘
広綱という兄がいたが早逝し、第7代宇都宮城主となる。
歌集『沙弥蓮瑜集』を残している。
建長4年(1252)4月1日、宗尊親王(むねたかしんのう)が将軍となり京都から東下する際、固瀬(かたせ)(片瀬)宿に出迎えた隋兵の中に景綱の名があり、『吾妻鏡』に初めて登場します。また、建長5年(1253)3月18日には蹴鞠(けまり)の会に参加しています。
歌人としても早くから才能を開花し、正元元年(1259)に撰集された『新○和歌集』には、祖父蓮生、笠間時朝に続いて48首が収められています。
正元元年(1259)祖父蓮生が亡くなり、弘長元年(1261)には父泰綱が亡くなったため、一族の惣領として幕府に仕えます。文永6年(1269)に幕府は問注所を廃し引付衆の制度を置きますが、その発足において景綱は最初の15名の中に加わっています。文永10年(1273)には評定衆に名を連ね、弘安7年(1284)に出家するまで幕府の要職を歴任しました。
また、弘安6年(1282)には「宇都宮弘安式条」を定めています。70カ条に及ぶ内容は訴訟、裁判、一族郎党に関する規定など広範囲にわたっており、当時下野国内だけではなく、美濃(岐阜県南部)、伊賀(三重県西部)、伊予(愛媛県)、豊前(福岡県)など全国に広がっていた宇都宮一族の所領を円滑に支配するために有効であったと考えられます。
しかし、弘安7年(1284)4月4日、執権北条時宗が亡くなり、景綱もその死を悼んで出家し、蓮瑜と改めています。
蓮瑜の和歌は、『新○和歌集』に48首が収められているほか、『続古今和歌集』(1首)『続拾遺和歌集』(4首)、『新後撰和歌集』(6首)などの勅撰和歌集に31首が撰ばれています。晩年に自撰の歌集『沙弥蓮瑜集』を残しており、約700首が収められています。
なお、弘長2年(1262)に宇都宮田川の東の地に東勝寺を開基したほか、文永2年(1265)には妙正寺を、建治2年(1277)には一向寺を、正応2年(1289)には長楽寺を建立しています。
『宇都宮市史第二巻 中世史料編』宇都宮市 昭和55年
『宇都宮市史第三巻 中世通史編』宇都宮市 昭和56年
『下野の和歌』渡辺幹雄著 昭和58年
『栃木県歴史人物事典』下野新聞社 平成7年
『宇都宮氏歴代の足跡』石川速夫著 平成9年